私の考えを実践する場として漢方専門薬局・針灸治療室 三健堂(さんけんどう)を開設したのは昭和50年のことでした。その後63年には漢方美容サロンをオープンさせ、漢方総合療法を提唱してきました。
その間には、多くの方々にスタッフとしてお手伝いいただきましたが、特に今のスタッフがベストメンバーだと思っております。
このページはそんなスタッフのみなさんに開放して、日頃感じていることを自由に書いてもらうことにしました。実は私もこのコーナーをとっても楽しみにしております。


No.30 『やられた!!』 
薬剤師・鍼灸師 古村江理
私の母(古村和子)は、料理が好きです。私が小さい頃は、誕生日やクリスマスなどのイベント時には、特に、色々な料理にチャレンジして作ってくれました。
あまり買い物に行く時間が無かった母は、ありあわせ・残り物再生料理部門が多かったそうです。ですので、パエリアとか、クスクスとか・・・おしゃれな手の込んだ料理はあまり作れません。その代わりありあわせの創作料理が特に得意です。
先日、残業している私に『手作りおかず』を差し入れてくれました。
ジャガイモとベーコンを使った、ジャーマンポテト風の炒め物と、なにか細かく切っていためて卵でとじたおかずの2品でした。
どちらも美味しくて、特に何か細かく切った炒め物が美味しくて美味しくて…。ぺろっと平らげてしまいました。
食後10分ほどして・・・
母から電話がかかってきました。「おいしかった?!」
私は『おいしかった〜〜〜。疲れ取れる〜〜〜!!』と喜んで報告しました。
『ところであの美味しかった“細かく切った炒め物”。あれ、何入っているの?』
そう聞いたところ、
「……あれ!? あれねぇ〜〜〜〜。」
ともったいぶって(?) 「あれは、しいたけの茎と、えのきの石突の上の根元のところと〜〜、人参の型抜きした後のかすを〜〜、細かく切って炒めて卵で綴じたの。」
……やられた!!……と思いました。
あるんです。母は、そういう再生料理が。得意なのです。残り物の野菜炒めが次の日はスープに化けていたり、家族が『おいしい、おいしい!』と食べている時は嬉しそうにニヤ〜〜っと笑っているんですが、後で「実はね・・・」と中身を種明かしされると、結構残り物だったりするんです。
お願いだから種明かししないで…。
そんなときもあります。
本人曰く、「勿体無いとかケチとかではなく、『物の命を全うさせる』為だ」とか。
何も言わず残り物を再生してみんなが何も気がつかずに美味しいと食べてくれると、楽しいそうです。だから、食後にちょっとタレが残ったり煮物の汁が余っているものを捨てようとすると、怒られます。
先週、チャレンジしてみたんです。再生料理を、弟で…。(ウフ!)
えのきの石突を取った後の根元の部分と、人参の型を抜いた後の残りと、ほうれん草の根元の赤いところとを細かく切って炒めて卵で綴じたんです。(おしょうゆ味)
細かく切っている現場を弟に見られてしまいました。
「何作るの・・・?」と弟の顔は、半ば青ざめていました。
『ひ・み・つ〜〜』とお決まりのごまかしをして、次の日のお弁当に持って行きました。
おいしかったです。
しかも、弟は「これがいちばんおいしい〜〜〜!!」と再生料理おかずを一番嬉しそうに食べていました。
こうやって娘は母に似ていくのかもしれません。
写真は、隣の市に在住の祖母(母の二人目のおかあさん)から送ってもらいました、コタツカバーです。母より更に上手(うわて)です。祖母曰く、「母の日に何がほしい?って娘から(母ではありません)電話が来たので、『何もいらないから余った毛糸を全部頂戴』と言ったらダンボールにつめていっぱい送ってくださったとか。
それで作ったそうです。
大作です。
掲載日:2007/09/04(火)



No.29 三健堂スタッフ師弟問答集(その3)
師 : ペンネーム「エヴォのママ」
弟子: 古村悠介(褐著aプロジェクト)

こんにちは。褐著aプロジェクトの古村悠介です。日一日と寒くなってきましたが、この師弟問答集は常夏です(笑)ある日、両替をしながらの会話でこんな一幕がありました。師匠「エヴォのママ」さんの底知れないパワーの秘密が、そこにはあったのかもしれません。

師:悠介さんって、小さい頃「●●レンジャー」とか見てた?
―――――弟子:いえ、僕そういうのは全然見なかったんですよ。
師:今スゴイのよぉ〜。「ガオレンジャー」とか「アバレンジャー」とか。息子に見せてたら私がハマったの(笑)
―――――弟子:(笑)そうなんですか?僕全然わからないんですよ。
師:でも一番ハマってるのが、アレね。「仮面ライダー」。もうすっごいカッコイイんだからぁ〜。
―――――弟子:(笑)あれ今もやってるんですか?
師:日曜の朝早い時間にね。ほら、よく日曜の朝に時事番組やってるじゃない?その前に見るのよ。カッコイイんだぁ〜・・・仮面ライダー・・・(ウットリ)。
―――――弟子:(笑)もうハマッてますねぇ〜、ドップリと。
師:でもねぇ〜、昔と違って、今はストーリーがすごい難しいのよぉ〜。一生懸命見てるんだけど、全然話が見えてこないのよ(笑)
―――――弟子:(笑)え、そうなんですか?あ、でもこの間たまたま見た「ドラえもん」も何だかそんな一面があったんですよ。「親は親で大変なんだよな」とか言い出してて、ビックリしました。あれ?「ドラえもん」ってこんな小難しいアニメだったっけ?とか思いました。今日びの子供は、あんなの見てわかるんですかねぇ?
師:そうそう、最近のってそんな感じなのよね!難しいのよね!今度悠介さんに「仮面ライダー」のストーリーを教えてもらわなきゃ(笑)
―――――弟子:途中から見始めてわかるものなんですか?
師:ん〜〜〜どうだろう?わかんないね(笑)
―――――弟子:んじゃ見てもあまり意味ないじゃないですか(笑)
師:(笑)ホントだね(笑)・・・でも、ホントにカッコイイんだからぁ〜。時事番組見る前に「仮面ライダー」見といて、頭を柔らかくしておくの(笑)
―――――弟子:(爆)『和みパワー』で柔らかく(笑)
師:そうそう(笑)
―――――弟子:でもストーリーがわからない(笑)
師:そうなのよぉ〜(笑)ホンットに難しいんだからぁ〜!でもね、この間のお正月、親戚の子が遊びに来た時に、恥をしのんで教えてもらったのよ。これまでのストーリーをさ。すごーく良くわかって、「これで来週から思う存分楽しめるわ!」と思ってたら、来週最終回なのよ(憂)
―――――弟子:(爆)悔しい・・・(笑)
師:そう!もう「きぃ〜〜〜っ!」とか思ってさ。絶対あの子、テレビ局とグルよ!そう思わない?
―――――弟子:言われてみれば・・・そんな気も(笑)
師:やっぱりそうでしょぉー?(笑)
―――――弟子:(内心、これも江理先生に教えなきゃ!と思う)
師:(弟子の表情を見て)あ!今「江理先生に言おう」と思ったでしょ?やめてよぉ。これ以上恥かくのはイヤだからねぇ〜(笑)
―――――弟子:これもダメなんですか?(笑)
掲載日:2007/09/04(火)



No.28 古希を迎えて D 和裁学院へ(全国和裁技術コンクール入賞)
ミッキー
和裁学院へ入学しました。四国の山の中から東京に出してくれ、好きな勉強をさせてくれた両親にはとても感謝しています。
「それにしても、香川県から東京まで、よくもこんな遠くに来たもんだ」と今も思います。でも、同じ村からの知人もいたので淋しいとも思わず楽しかったし、勉強の方も好きな縫物も苦になりませんでした。そしてお食事も「炊事の係りの人」がいて毎日作ってくれるので安心でした。
無事卒業出来る様、目標に向って自分の為にも両親の為にも頑張ったものです。
両親へのハガキも、忙しいので箇条書きで「元気でいる」と書いただけでしたが便りは忘れずに出しました。一度風邪を引いて寝込んだ事があったのですが、母から「やせて骨皮になって寝ている姿を夢で見たが風邪を引いて寝込んでいるのでは…心配しています。」という手紙がきました。『遠く離れていてもわかるのだ!』『さすがは母親だなあー』と涙が出た事がありました。
ある時、学院に『日本和裁士会主催、全国和裁技術コンクール』の知らせがありました。誰が出場するの?と皆で話していましたが希望者は誰もいませんでした。そんな時、先生に呼ばれて「あなた出場しなさい。大丈夫よ」と言われました。私1人というのはとても心細く、とても責任を感じて不安になりました。学院を代表して行くというのは自信がなかったのですが、『やるいしかない!』と自分に言い聞かせてお引き受けしました。
『技術コンクール』というのは「袷着(あわせぎ)を8時間内できれいに早く縫い審査の結果優秀者を決める競技会」でした。時間をかけて縫えば誰でもきれいに縫う事が出来ます。それは当たり前のことですが、『早く・時間内に・きれいに仕上げる』のは大変な事です。
当日は、北は北海道から、南は九州まで全国から腕をきたえた生徒達が東京中央大会に参加し、最大限に自分の力を発揮したものでした。
あらかじめ袷着を自分で裁ち、ヘラ付けしたものを当日持参するのです。先生と一緒にタクシーで行き、仕上げて提出するまで緊張の一日でした。
とにかく時間内に出来、ほっとした事も、お陰で入賞出来て賞状と入賞タテとネックレスを頂いた事も、一生忘られない、うれしい日でした。
先生も友達もとても喜んでくれ、又、両親も喜びの手紙をくれました。小さい頃から縫物をしていたのがよかったのかもしれないと思います。やはり母には感謝です。
当時、卒業式には全員訪問着を着ることになっていました。が、父親からが来た手紙には「訪問着くらいは卒業祝いに買ってあげたかったが…」と。やはり兄と妹の学費の事を考えて言っている父の気持ちはよくわかるので、私は卒業式には出ないと考えていました。
でも、やっぱり母親ですね。ある日、書留が届きました。訪問着一式を買う費用でした。後でわかった事ですが、母が豊かな時代に買っていた着物を売ったお金と、へそくりだったそうです。
こんな事があったので、私は「両親からのプレゼントは『大きな愛』と『訪問着一枚と帯』だった」と思っています。これも私にとって宝です。
そんな優しい両親に対して私は、「卒業したら、一生懸命働いて両親に親孝行しよう。まず、してあげたい事は、両親を東京見物させてあげたい」と思っていました。「日本の大都市を見てほしかった」のです。
次回は結婚と主人です。
掲載日:2007/09/04(火)



No.27 「ステロイドは使わないで!」 
こいちゃん
店頭でも・通行中・通勤電車の中でも、最近ステロイドのリバウンドではないかと思われる方を随分お見かけします。
実は三健堂スタッフの私も辛い経験をしました。
三健堂に入社し、古村先生の勉強会で学ぶまではステロイドの恐さを知らずにいましたし、まさか、私のその辛い症状がステロイド・化学薬品による物とは思ってもいなかったわけですから。
10年ほど前、使用した眼科の緑内障治療薬の目薬(アレルギーも?)からはじまり、(特に右目に強い薬使用)眼科治療後しばらくして、右目上に原因わからずのかぶれが出、皮膚科でも原因わからず・治らず、その後は薬局の塗り薬を使用。その間3年ほど。
その後も、眉毛辺りに粉をふいたような白いかさぶた(?)・痒くなる様な症状が出たり出なかったりの繰り返しでした。
ここ5・6年は化学薬品は一切使用していませんでしたのに…。身体の中で化学反応??…が、昨年秋より右顔半分と右腕の肌の色が黒紫になり、腫れ・痒み・痛み・浸出液・肌がもろくなり、触れるだけで切れるという強い症状が出始めました。
「西洋医学は封じ込めるだけで完治しない。漢方は「排泄の医学」、悪い物を出し、根気よく・治ると信じてやってみよう!」と。
古村先生を信頼し、古村先生のご指導のもと、漢方薬(飲み薬・軟膏)・針治療・日常生活の注意事項の治療作戦を開始。途中、家族の者が西洋医学の治療を勧めましたが、化学薬品・化学物質で最悪の状態になったのですから行くつもりなどありませんでした。
約6ヶ月間死ぬ思い(?)・大変辛い思いをしましたが、お陰様で、今現在は顔半分右側がいくらか色黒かな?右腕がまだ少し…と思う位の状態まで回復。
今は「漢方ってすごい!」と家族の者も驚いていますよ。
一番醜い顔の状態のときには、誰にも見られたくないと…写真撮影も拒否しておりましたが、最近特に、店頭に若い方々のご相談者が増えてきまして、「このままではいけない。」と思い、古村先生のホームページにも顔写真も載せて頂く様おねがいしました。
皆さんに 「ステロイドの恐さを知っていただき、使用しない様お願いしたい」 と思っています。
どうぞ、元気を取り戻してきた顔を見に 「三健堂へ」 いらしてください。
(一番酷い時は顔色が黒紫でむくみもあり、お岩さん状態でした。 いくらか色・むくみが取れてきた状態の頃の写真です。)
掲載日:2007/09/04(火)



No.26 「続 チャレンジ・フネ の広告」
古村悠介
こんにちは。4度目の登場となりました、褐著aプロジェクトの古村悠介です。坊主頭にもかかわらず、何故か美容院のチラシをもらう事が多く、世知辛さを噛み締める今日この頃。冬支度はお済みになりましたか。
前回、「チャレンジ・フネ −スケボー・バージョン−」の広告を書かせていただきましたが、今回は、フネさんの新しいチャレンジ(画像)を発見しましたので、書かせていただきます。
先日、都内で開催されました「第58回日本綜合医学会東京大会」の講演を聞きに、母・長女(姉)と3人で参加させていただきました。上野駅から山手線に乗り換え、何気なく見上げた社内広告に、あの「フネさん」がいらっしゃったのです。
今回はラグビーに挑戦しているフネさん。やっぱり着物・割烹着姿でチャレンジしているフネさん。他の選手を差し置いて、今回も満面の笑顔でダイビング・トライしているフネさん。汗一つかかず・髪の毛一本の乱れもないフネさん。封印をとかれた底力を惜しげもなく披露しているフネさん。
学生時代に一度だけラグビー観戦をした事があったので、その時の光景と着物姿で猛ダッシュするフネさんをミックスしてみました。……ありえない。この世のものとは思えない違和感に、思わず大爆笑してしまいました。しかし、さすが子供は適応力がありますね。前回ではたいそう驚いていたカツオ君も両手でガッツポーズしています。初参加のワカメちゃんも大喜び。その他大勢の観客はどう感じていたのでしょうか。………謎です。
その広告では上半身しか描かれていないので、1つだけどうしても気になって仕方がない事がありました。それは、「フネさんは下駄で走り回っていたのか?それとも足袋で?」………シリーズ最大の謎です。
そして、やはり広告には「チャレンジ!フネ」の文字が。しかしどう見ても「トライ」なのでは………。ボールの模様が「タマ」(しかも正面向いてる。 怖。)という規格外の演出。もう誰もフネさんを止められないのでしょうか。「まさか………遊んでない?フネさんで」突如燃え上がった疑惑の炎の中、「ガチャピン化(『開けポンキッキの』)計画中のフネさん」を携帯カメラに収めるのが精一杯でした。
注)日本綜合医学会の講演については、また別の機会に書かせていただきます。
掲載日:2007/09/04(火)



No.25 古希を迎えて C  あこがれの高校生活(奨学生に選ばれて)
ミッキー
昔は今と違って高校進学は中学卒業生の1・2割位で、他の生徒は就職という時代でした。私の所は「8つの村の中学から1つの県立高校の本校に行く」ので大変でした。あこがれの高校へ入学し、1週間位してホームルームの部長・副部長の選挙がありました。入学間もなくでまだ友達の名前も顔もよく覚えられない中でしたが、私は中学3年生の時に早縫いコンクールで入賞して各新聞に載っていたので、ホームルーム副部長に選ばれました。自分ながらびっくりしましたが、こういう事は中学時代から慣れていたので、「クラスをしっかりまとめ、友人と仲よくして、楽しい高校生活を送りたい」と思いました。
高校時代も中間と期末テストがあり、その点数を合計してクラスで何人中何番という席次がつけられました。私は「中学時代同様に良い成績を取るには頑張るしかない」と心に決めました。
2年生の時だったでしょうか、別に申し込んだ訳でもないのに『日本育英会奨学生』に選ばれびっくりしました。「授業料免除」というので親は喜んでくれるかと思ったのですが、父からは反対に「お断りする様に」とすごく怒られました。
今思うと立派な父だと思いますが、当時の状況は、「叔父が医者をしているのに子供がいないので、父は『私の兄を医者にし、その後を継がせたい』という夢があり、中学から町の学校を受験させた」程でしたので、「これから先はお金はいくらでも必要だから」と思い、私は奨学生のお話をお断りしませんでした。
そんな事もあり、私は雨の日も風の日も休んだ事なく、一里半(6キロ)の道を自転車に乗って通学したものでした。
担任の先生は洋裁の先生でした。もともと縫い物が好きでしたので、高校の制服も自分で縫って着ていったものでした。
(この先生はとてもやさしい先生で、5年後に主人と私の仲人をしてくれた先生です。いい主人を紹介して下さり、今でも感謝しています。)
いつも奨学生である事を自覚し、生徒会活動をしながら、成績が下がらない様に家では毎日勉強の予習・復習・珠算・書道・縫物をし、ほとんど遊ぶこともなく頑張りました。3年間こんな事を繰り返す高校生活でした。
卒業の時の校長先生の『将来立派になって人の為に尽くしなさい』という言葉が耳に残った時代でした。
卒業後の進路については、珠算検定・硬筆検定それぞれ2級に合格しているので会社から事務職の採用もあったので、早く就職して父の援助をしたいと思っていたのですが、父は「お勤めをしなくても好きな道を進めばいい。これから女性だって自立する時代になる」と言い、母も賛成してくれましたので、和裁学院に行く事になりました。

次回は、和裁学院へ(全国和裁技術コンクールに入賞したこと)です。
掲載日:2007/09/03(月)



No.24 近くで事故がありました。
古村江理
この前の昼下がり。
鍼灸治療が空いていて、流しで煎じ薬を煎じていた私。

突然

「キキィィ〜〜〜〜〜〜〜・・・ドン!」

と音が! 『エヴォのママさん』が窓の外を見て「アレ! ぶつかったんじゃない!!??」
と遠くを眺めて言いました。
『えっ!?』 ぶつかったの!?と窓の外を眺めても、私は見えない・・・。

実は針灸の「お兄さん先生」は、元消防隊員。救急車も乗っていた方。
傍にいたスタッフの人が お兄さん先生に声をかけて、駆けつけてみることに。
お兄さん先生は、お店にあるガーゼや包帯を抱えて駆けつけました。

エヴォのママさんは、一足先に現場に駆けつけ、後から来た私に
『早く!早く!』と手招きを。
そこには女の子が横たわっていました。
生まれて初めて事故現場に行った私は、手も足も声も出ません。
さらに後から駆けつけたお兄さん先生を呼ぶことしか出来ませんでした。

もうすでに、救急車は呼ばれていました。
通りすがりの人が囲んで心配そうに覗き込んでいました。
日傘をかざしてくれている女性もいました。
みんな心配そうでした。 私もです。

その時、お兄さん先生が怪我して倒れている女性に近づいて大きな声で声をかけました。
『お兄さんが来たから、もう大丈夫だよ!!』

女の子だけではなく、その周りにいた人全員の心配そうな顔がホッとした表情に変わりました。
女の子の顔から一筋の涙が流れました。
あー安心したんだね、良かったね。

『救急車も呼んでいるから、もうすぐ来るから。大丈夫だからね。』
『どこか痛いところ、ある??』
女の子はぽそぽそ・・・とつぶやきました。
『足だね。足のどこ?』

彼女はかかとに怪我をしていました。
お兄さん先生は、ガーゼを開けて適当な大きさに切り、ネット包帯をかぶせました。

ふと気が付くと、オレンジ色のジャンバーを着た人が3人、傍で電話をしていました。
その方たちはたまたま偶然通りかかったレスキュー隊の方々でした。
お兄さん先生はそのレスキュー隊の方に報告をして、あとはお任せして、みんなでそこを引き上げました。
暫くして、救急車が来ました。
よかったね。後は大丈夫だね。

お兄さん先生、すごい!

・・・あとでお兄さん先生のお話を伺いました。
軽い怪我でよかった、っておっしゃってました。
あの応急処置でよかったのか、とも。
中には頭を強く打って、耳から脳髄液が漏れ出てしまうケースや
意識が無いケースなど、今まで沢山見てきたそうです。
そういう時は、もうなすすべが無いんですよ、と。
お兄さん先生は教えてくれました。

人の生き死にに関る現場。

でも、「お兄さんが来たから、もう大丈夫だからね!!」
の言葉に、彼女も周りの人もどれだけ救われたか。
様々な事を感じた一日でした。
掲載日:2007/08/02(木)



No.23 古希を迎えて B 終戦後の生活(学校生活)
ミッキー
国民学校三年生の夏が終戦でした。61年も前のことです。
戦後の食料難のために、学校の広い運動場はさつまいも畑に、我が家の広い庭も野菜畑に変わりました。そんな時代なので父はいつも栄養について考えていて、少ない収入の中から「煮干でカルシウムをとる」などの工夫をしてくれていました。
靴もなく下駄か草履でした。肉もなく新鮮な野菜ばかりでした。
電気もなくうす暗くランプ生活でしたが、五年生の時にやっと電気がつきました。初めての電気は明るくてびっくり! よく本を読みました。当時は二宮金次郎の伝記物が好きでした。お風呂は五右衛門風呂でした。
学校から帰ればまず勉強をする毎日でした。その後で、季節によってはいちぢくの木に登ったり食べたり、栗拾い・わらび取り・よもぎ摘み・げんのしょうこ取りをしました。夜は星が輝き、小川では蛍が飛んでいました。
のどかではありましたが、蝿(はえ)・蚊(か)・蚤(のみ)・虱(しらみ)・鼠(ねずみ)等が多かったです。夜は蚊が多いので蚊帳(かや)の中で寝ました。虱対策として、学校では全校生徒が「虱殺しのDDTの白い粉」をふった思い出があります。
「衣」の方は『衣料切符』というものがあって、今の様に何でも自由に布が買えるというわけにはいきませんでした。そんなご時勢の中、四年生から家庭科の時間がふえ、私は父母の着物をほどいては母に教わりながら、自分の着る服を自分で縫っていました。
六年生になった時、「クラスの級長、副級長」をはじめて生徒達で「選挙」で決めるように変わりました。私は母の念願の『副級長』にはじめて選ばれ、母は涙を流して喜びました。その姿を見ると又がんばりたいと思う私でした。
中学時代は戦後といえども村は豊かでした。そして通っていた学校が「日本に3つしかないモデルスクール」になったために、学校では『建物だけでなく中身も充実しよう』と、今なら差別と言える様なことが行われました。テストをすればなんでも、学年の生徒の木の番号札を廊下に「能力別に一番からビリまでを順番に」ぶら下げていました。でも、村の親達も生徒も先生を信じていました。「クラスを良くしよう」・「学校を良くしよう」という気持ちでやっていました。生徒会活動も盛んで、『出来ない子は助け合う』という優しい心が育まれ、それが道徳でもあったと思います。そして子供ながら『努力すれば成績はアップする』という事を皆で経験したことは、とても良かったと思いますし、忘れられない恩師でもあります。この頃の友達とは今も交流があります。
中学3年生の時、香川県下初の『中学生早縫い並びに運針競技大会』があり、私は第一位に入賞しました。両親はもちろんですが、学校でも担任の先生や校長先生・友達が、「日本全国に“山田中学校”の名があがった」と、とてもよろこんでくれました。そんな事があったので、卒業前、思い出のサイン帳をかくのがとても忙しかったのを覚えています。親友がサインをしてくれた『日本一の仕立て屋さんになって』とか、『今までの努力はすごかったね』と書いてほめてくれたのを読み、私は『将来、家庭科の先生になりたい』と思いました。こんな“十五歳の夢”を見ていたのです。そして高校に行ってもがんばろうと思う私でした。
次回は奨学金のこと・全国和裁技術コンクールに入賞出来たことを書きます。
掲載日:2006/12/11(月)



No.22 お笑い師弟問答集(その3)「世代交代!?」
古村悠介
急に秋らしくなってきましたね。徐々に秋めいていく情緒が皆無な今年の秋。微妙どころか全く秋を楽しめない今日この頃。

皆様お元気でしょうか。健和プロジェクトの古村悠介です。風邪の噂もちらほらと聞こえてくる頃になりましたね。インフルエンザの予防接種を受けた方もたくさんいらっしゃる事でしょう。予防、コレも大事。

さて、ここ暫くの間、我が師匠・エヴォのママさんとの師弟問答集をお届けできておりませんで、申し訳ありませんでした。風の便りでは、この問答集を楽しみにしてらっしゃる方もいるとかいないとか。まぁいる事にしましょうか。しましょうよ。

久々の問答集。今回のお題は「セバスチャンのその後…」です。冬眠から生還する時を今か今かと待ち構えて、いえ、待ちわびていた師匠。その後を聞くのをすっかり忘れたまま1年以上が経ったある日の会話です。

―――そういえば師匠、あの「セバスチャン」はどうなりました?あれだけ愛情を降り注いでいたセバスチャンは。全然噂を聞かないし、僕も聞き忘れていたんですけどね(笑)
師匠:それがね〜、帰ってこないのよ。待てど暮らせどこないのよぉ〜。
―――え?じゃぁあれっきりなんですか?
師匠:そうなのよぉ〜。きっとどっかで干からびたんだと思うの。どっかのアスファルトがセバスチャンを殺したのよ。
―――(笑)じゃぁ寂しいですよね。セバスチャンを溺愛してましたもんね。
師匠:そうなの。でもね、今は平気なの。後継者がいるから。自宅の庭先に巣を張ってる蜘蛛なんだけど。子分を2・3匹引き連れてる親分がそれなんだけど、勇ましいんだよね〜。
―――蜘蛛?今度の愛情の向かった先は蜘蛛ですか?
師匠:そうなの。なんたってただの蜘蛛じゃないんだから。カッコイイしカワイイんだって。たまにね、侵入者がいて戦ってたりしてるのね。で、私はそれを黙ってじーっと見てるの。万が一の事があったら仇をとってやろうと思って(笑)
―――(笑)カワイイ我が子の仇を(笑)
師匠:(笑)そうそう。でね、じーっと見てるとその子が相手を糸でぐるぐる巻きにして巣の上の方に引きずり上げるの。危ないかな?って思った時もあったんだけど、最後はちゃんと勝つのよ。さすが我が子!って感じで嬉しくなっちゃって(笑) でね、巣の上の方にぐるぐる巻きにしたヤツ(侵略者)を引きずり上げてくでしょ?きっとね、後でゆっくりヤツ(侵略者)の生き血を吸ってるんだと思うの(笑)
―――(笑)生き血…(笑) エグい…(苦笑) やっぱりアレですか。その子(蜘蛛)にも名前が付いていたりするんですよね。
師匠:もちろんよ!今度はね、『イライザ』っていうの☆ 何か“生き血吸ってますー”って感じの名前でしょ?(笑)
―――(爆)そのイメージが探りづらいんですけど…(爆)
師匠:(笑)えー?そう?気のせいですよ〜(笑)
―――イライザ…親分気質のイライザ…敵の生き血をゆっくり吸うイライザ…。
師匠:そうそうそんな感じそんな感じ(笑)どう?そろそろピンと来たんじゃない?(笑)
―――うっすらですけど(笑)

あの時はこう答えていましたが、実際には未だにピンときてません。溺愛動物の世代交代へのショックと、師匠の勢いにつられて「うっすらと」と答えた事への後悔はつきません。ところで、蜘蛛って冬眠しましたっけ?冬眠するなら師匠はまたしてもブルーな季節を過ごすのですね。しないならば、今度は一年中「生き血吸い・イライザの武勇列伝」が頻繁に味わえるのですね。わーい、うれしーなー(←棒読み)。

今の正直な心境。それは、次回のお題が「イライザ、生き血を吸い返されて世代交代」とならない事を切に願ってやまない、という事です…。
掲載日:2006/11/16(木)



No.21 古希を迎えて A 幼児編(終戦前)
ミッキー
私のふるさとは讃岐うどんで有名な香川県です。今でも家のまわりの「山あり、川あり、田んぼあり」ののどかな四国風景を思い出します。
私はこの地で誕生しました。『大望の女の子』だったので両親はとてもうれしかった様でした。が、赤ちゃんの時に肺炎をおこし、「医者から死を宣告されながらも両親の愛情で奇跡的に助かった」のです。そんな私が古希を迎えた今もこんなに元気でいられるのですから、何かとっても不思議でありがたいと思っています。
そんな事があったためか、両親は私を大切に育ててくれた様です。エディックという栄養剤も私だけ飲ませてくれたらしいです。
冬は外で遊ぶとカゼを引くのでいつも家の中で遊んでいたらしく、また幼稚園は遠いので行った記憶がありません。でも、物心ついてからは、『ハサミ・ノリ・紙・クレヨンなどを与えておけば一日中、それで静かに遊んでいた』のを覚えています。そしてはずかしがりやの子でした。
毎日歌をうたいながらの母と買い物も楽しかったです。雨の日には母はよく本を読んでくれましたし、父も寝るときはいつも物語りを作って話してくれました。
幼稚園に行っていない私に、母は草履を作りながら数を教えてくれました。わらを1本2本3本と…。百本まで数えられるようになり、やさしい足し算・引き算もワラで教えてもらいました。どんぐりやトマト・なすを数えたりしたのもいい思い出です。カルタ遊びで楽しみながら字も覚えました。昔は国民学校に入学するまでに自分の名前が読めれば良いという時代でしたが、私は小学校に入学した時、もらった一年生の教科書の国語の本は全部読め、算数も大体出来ていた様に思います。今考えると両親はとても「教育パパとママ」の様ですが、病弱な子は生きているだけで両親は幸せだと思っていた様で、遊びとして色々教えてくれたのだと思います。
あの時代、吉幾三の歌じゃないですが、電気もない、水道もない、もちろんテレビもない田舎ぐらし。娯楽もないので自然に家の中での遊びが勉強につながった様です。母はいつも明るくにこにことしかられたことはありませんでした。ほめ上手で、いつも「笑顔でいい子だなあ。上手だなあと言ってくれました。この言葉を今も思い出します。
国民学校一年生の時、学校で全員、貯金する事がありました。他の友達は五十銭だったのに、私はいつも十円を貯金していました。教室の後ろにはクラス全員の貯金額を棒グラフにしてありました。その頃、子供心に、私の家はお金がたくさんあるのだなあと思いました。その反面、小額の人はかわいそうだと思いました。私のお弁当はいつも白いごはん、友達は麦ごはん。私はそんなご飯を食べたくてマッチ箱に米を入れていき、隣の友達に筋の入った麦とかえてもらい、母をびっくりさせた事もありました。
おもちゃもない時代でしたが、近所の友達とれんげ畑でれんげの首かざりを作ったり、どろんこでお茶碗を作ったり、木の葉や花でのおままごとなどが楽しい遊びでした。日本は戦争中といえども田舎はのんびり生活出来るいい時代でした。病弱だった私も国民学校に通うようになると、学校が遠かったことがいい運動になったのか、とても元気になり大きく育ちました。
学校は楽しく、三年生を迎えようとしていました。が、その時…??      
―次回は終戦後の生活(学校生活)です。―
掲載日:2006/11/16(木)